■弁慶と並ぶ義経配下の代表格
伊勢三郎義盛という。義経四天王の一人とされている。元は伊勢国の山賊とされているが出自ははっきりとはしていない。上野という説もある。伊勢という名から伊勢国出身と推測される。またいつ頃より義経に従ったかもはっきりはしていないが、恐らく義経が近畿にいた1183年頃と筆者は推測している。
知才と武勇を持ち合わせた人物で、具体的な活躍が見られている。愚管抄の表記になるが、源義仲を粟津の戦いで討ち取ったとあり、1185年の壇ノ浦の戦いでは平宗盛と清宗親子を生け捕った。また遡って屋島の戦いでは3000騎の田口教能に対して16騎で向かい弁舌によって降伏させる活躍も見せている。尚、この屋島の戦いでは那須与一が扇子を射たことに感嘆し、舞を踊った平家側の武者をも射たのは伊勢義盛の指示とされている。
このように知勇を持って活躍した義盛だが、1185年、後藤基清の郎党と乱闘事件を起こし、源頼朝の義経に対する不信感を一層募らせてしまう失態を犯している。
義経の九州落ちに失敗した後は、畿内に潜伏していたが、この時首藤経俊を襲撃し失敗。その後攻められて自害した。 |