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 トップメニュー>登場武将一覧トップ>義経と運命を共にした配下たち
 
 

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・源義経 ・伊勢義盛 ・武蔵坊弁慶 ・源有綱 ・佐藤忠信 ・佐藤継信 ・常陸坊海尊
・鷲尾義久 ・備前房成 ・鎌田光政 ・鎌田盛政 ・熊井忠基 ・鈴木重家 ・駿河清重
・江田弘基 ・増尾兼房           

源 義経 (みなもと よしつね)
■兄と対立した英雄
頼朝の異母弟。平氏を滅した立役者。のちに頼朝に討伐された。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
60 90 59 65 63 85 34 61
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伊勢 義盛 (いせ よしもり) ?-1186
■弁慶と並ぶ義経配下の代表格
 伊勢三郎義盛という。義経四天王の一人とされている。元は伊勢国の山賊とされているが出自ははっきりとはしていない。上野という説もある。伊勢という名から伊勢国出身と推測される。またいつ頃より義経に従ったかもはっきりはしていないが、恐らく義経が近畿にいた1183年頃と筆者は推測している。
 知才と武勇を持ち合わせた人物で、具体的な活躍が見られている。愚管抄の表記になるが、源義仲を粟津の戦いで討ち取ったとあり、1185年の壇ノ浦の戦いでは平宗盛と清宗親子を生け捕った。また遡って屋島の戦いでは3000騎の田口教能に対して16騎で向かい弁舌によって降伏させる活躍も見せている。尚、この屋島の戦いでは那須与一が扇子を射たことに感嘆し、舞を踊った平家側の武者をも射たのは伊勢義盛の指示とされている。
 このように知勇を持って活躍した義盛だが、1185年、後藤基清の郎党と乱闘事件を起こし、源頼朝の義経に対する不信感を一層募らせてしまう失態を犯している。
 義経の九州落ちに失敗した後は、畿内に潜伏していたが、この時首藤経俊を襲撃し失敗。その後攻められて自害した。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
66 82 10 60 49 73 32 71
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武蔵坊 弁慶 (むさしぼう べんけい) ?-1189

 義経四天王の一人とされている。知勇兼備の将とされ、義経に従い大活躍をするイメージがあるが、最近まで実在が危ぶまれている程に表記が見られない人物であった。平家物語での表記は一の谷での戦いで鷲尾三郎義久を義経に紹介する以外はほとんど出てこない。ただ、強者として紹介される場面もあるので武勇に秀でていたのは確かであろう。記述が少なく出自もはっきりとは分からない。不明熊野別当湛増の子という説もある。
 義経との出会いは京の五条の大橋の話が有名だが、これは後の創作で、実際は義経が京にいた頃にその配下に加わったようである。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
60 96 30 65 78 60 65 82
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源 有綱 (みなもと ありつな) ?-1186
■源三位頼政の孫
 1180年に以仁王と挙兵した源頼政の孫であり、源仲綱の次男である。以仁王の乱の際、頼政たちが敗死した際は伊豆にいたため難を逃れた。同年、源頼朝が挙兵すると、これに属している。
 1182年、土佐で源希義が蓮池家綱らに殺害されると、希義を保護していた夜須行宗と協力し、これを攻め敗死させている。こ頃より源義経の勢力下に入り、後に義経の娘を妻とし女婿となった。義経の九州落ちが失敗した際も同行し、吉野へ共に逃げている。
 その後は大和国に潜伏していたが、北条時定らの義経残党狩りに遭い自害して果てた。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
46 75 52 28 55 69 61 66
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佐藤 忠信 (さとう ただのぶ) 1161?-1186

 佐藤四郎忠信。藤原秀衡に従っていた有力者、佐藤基治の子である。源義経が頼朝の下へと馳せ参じるに当たり、秀衡が兄・継信と共に随行させ、以後義経に生涯最期まで従った。源平盛衰記では義経四天王の一人とされている。
 平家物語によると屋島の戦いでは、兄・継信を討ち取ろうとした平教経の郎党、菊王丸を射抜いて重傷を負わせた。これにより、兄・継信は首を掻かれずに済んでいる。また1185年、堀川夜討の際は義経と共に応戦し勝利した。
 義経の九州落ちにも従うが失敗。義経と別れた後は京へ潜伏するが、かつての恋人に手紙を送ったことから義経の残党刈りをしていた糟屋有季に居所を密告され、攻められて自害した。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
65 76 17 44 64 53 29 68
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佐藤 継信 (さとう つぐのぶ) 1158?-1185
■義経を守って負傷する
 佐藤三郎継信。藤原秀衡に従っていた有力者、佐藤基治の子である。源平盛衰記では義経四天王の一人とされている。屋島の戦いにおいて戦死している。この継信も弟・忠信同様に藤原秀衡が義経に随行させた。平家物語では一の谷の戦い、屋島の戦いにその名前が見られている。特に戦死した屋島の戦いの記述は大きい。
 平教経は得意とする弓で、源氏の兵を次々と倒していく中で、義経に目を付け射ようとした。継信はそれを真っ先に庇い射抜かれてしまい落馬。教経の郎党・菊王丸に首を掻かれそうになるが、弟・忠信の活躍で免れ陣へと戻ることができた。しかし重傷を負った継信は義経に看取られながら死んでいく。義経は継信を弔った僧に、所有していた名馬・大夫黒を差し出した。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
46 85 14 55 59 37 31 86
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常陸坊 海尊 (ひたちぼう かいそん)
■生き残って義経を語り継ぐ
もと三井寺の僧。義経に仕え、弁慶とともに主人を守った。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
81 75 53 25 72 72 64 65
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鷲尾 義久 (わしお よしひさ) 1167-1189
■道案内役から出世
 鷲尾三郎義久という。義経の郎党。平家物語に登場。一の谷の戦いの際、弁慶が案内役にと義経に紹介した鷲尾庄司武久という老猟師が、自分は年老いて道案内が難しいということでさらに紹介したのが、子・鷲尾義久である。名前は熊王丸という16歳の童子であった。義久は猟師の子と思われる。しかし父・鷲尾庄司武久の庄司とは庄官のことと捉えることができ、在地武士とも考えられる。
 義経はこの熊王丸を鷲尾三郎義久と名乗らせ、道案内をさせたとされる。義久は以後も義経に付き従い、1189年衣川の戦いで死亡した。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
16 44 10 15 53 56 19 60
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備前 房成 (びぜん ふさなり) ?-1189
 義経記では備前平四郎という名で登場するが、源平盛衰記では備前四郎という名前が見え、これは同一人物と考えられる。
義経の郎党。義経追討、屋島の合戦などに参加した。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
44 78 38 36 50 45 40 68
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鎌田 光政 (かまた みつまさ) ?-1185

 鎌田藤次光政という。鎌田盛政は兄。源平盛衰記では義経四天王の一人。平家物語ではその名は見られていない。源平盛衰記では源義朝の乳兄弟で暗殺される際に同行していた鎌田正清の子とされているが、別に拠ると政清には子がいないとされている。そのため政清の猶子・政治の子とされている。この点より実在した人物かどうか疑わしい部分がある。
 源平盛衰記では屋島の戦いの場面で、一騎当千の者として紹介されている。この戦いの後半で平氏を攻め立てるが、討死してしまう。
 義経は、この戦いで同じく討死した佐藤継信の亡骸と光政の亡骸を見て悲しんだという。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
52 75 19 36 53 52 41 77
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鎌田 盛政 (かまた もりまさ) ?-1184

 鎌田藤太盛政という。鎌田盛政は兄。源平盛衰記では義経四天王の一人。平家物語ではその名は見られていない。源平盛衰記では源義朝の乳兄弟で暗殺される際に同行していた鎌田正清の子とされているが、別に拠ると政清には子がいないとされている。そのため政清の猶子・政治の子とされている。この点より実在した人物かどうか疑わしい部分がある。
 源平盛衰記では義経四天王の一人として、佐藤兄弟と弟・光政と共に名が上がっている。弟・光政の討死の際、この盛政は一の谷の戦いで討死したと記述してあるのみ。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
48 80 22 42 51 37 28 72
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熊井 忠基 (くまい ただもと)
義経の郎党。衣川の合戦で、義経を守って戦った。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
39 71 8 21 62 44 23 60
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鈴木 重家 (すずき しげいえ)
戦国時代に雑賀衆として名がしれる鈴木氏の出である。
頼朝から所領を賜るが、義経を慕って衣川に駆けつけた。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
42 83 14 44 55 41 23 70
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駿河 清重 (するが きよしげ) ?-1189
■義経四天王の一人として活躍
 駿河次郎清重だが清重は後世に付けられたものらしい。義経記、源平盛衰記に登場。元々は頼朝に従っていたが後に義経に従い、義経四天王の一人となった。1180年頃に
 1185年、堀川夜討の際、捕えた土佐坊昌俊を斬首した。後。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
50 56 14 12 57 56 21 60
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江田 弘基 (えだ ひろもと) ?-1185
■堀川夜討ちで活躍し戦死
 江田源三という名で平家物語に登場。義経の郎党である。1185年屋島の戦いの話の中で弁慶らとともに強者として紹介がされている。義経が兄・頼朝との対立を激化させた1185年、頼朝は土佐坊昌俊を差し向け堀川夜討が行われた。義経たちとそれに味方する源行家の活躍により敗走させ、土佐坊昌俊を捕えることができたが、江田弘基はこの乱戦の中で討死したとされている。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
33 73 12 31 56 44 15 76
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増尾 兼房 (ましお かねふさ) ?-1189
■北の方に使えた老将
 義経記に登場。増尾十郎権頭兼房というが、義経記には増尾十郎と十郎権頭兼房と別人の二人登場が登場しそれらを合わせたものだと思われる。架空人物の可能性が高い。
 老年の武士で、義経の正室・北の方が幼少の頃より使えていた人物で最期まで付き従っていた。1189年衣川の合戦の際は、北の方とその子及び義経の自害を見届けて館に火を放った。その後、敵方の長崎太郎を切り殺し、弟の長崎次郎を脇に抱えて火の中に飛び込んで果てたという。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
60 52 36 18 37 37 26 62
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